Masuk私は、話しながら彼の体を拭き始めた。「私、まだわからないことがたくさんあるけど……今、目の前にある大切なものを、しっかりつかんでいようと思います」「うん」「誰とどんな出会いをして、自分の人生をどんな風に組み立ててきたのか……まだ、思い出せない。もどかしい」「うん」「それでも……私ね、揺らがない大地に支えられているのが、はっきりとわかるんです」 タオルで、私がつけた痕をなぞっていく。彼が吐息を漏らし、目が合った。お互いの瞳の奥まで、見通せる感覚。宇宙の果てしない謎のように、二人の間には遠い記憶がいまだ目を覚ましきれず横たわっている。けれど、夜空は澄んでいる。澄み切ってる。 見つめ合い、ゆっくりと手を動かす。彼の首筋も、耳も、お腹も……そこに触れた過去を覚えていなくても、私は『また』知っていく。 広い背も軽く拭いて、肩に小さなキスを落としてから、タオルを机に置いた。「リン……」 どちらからともなく、そっと抱きしめる。ベッドの上で二人、このまま時が止まってしまってもいいとさえ思う。それほどまでに大切だからこそ、いつまでも立ち止まっていたくない、とも思う。「晧司さん。私、大丈夫よ。大丈夫……」 揺れ動きながらも、一歩ずつどこかへ向かっている。謎だらけの星空の下、不思議なほどしっかりと大地を踏みしめている。 彼の抱擁が強くなった。鼓動に包まれる。「リン。私の……」
隣に腰かけた私を、彼は優しく抱き寄せた。体温が伝わってくる。ほのかな汗の香り。私の情緒は今、多分本当にグラグラと揺れていて、この汗を拭きとったら昨夜の痕跡が消えてしまう……と寂しがる気持ちがある。「ふふ」 笑ったのは、自分に対して。あまりにも子供じみて、身勝手な感傷だから。このままでは彼の体が冷えて、回復しかけた体をまた悪くしてしまう。それに、私が残した痕は濡れタオルで拭いたところで、消えるものではない。 ――こんなところにまで。まったく君は……。 ――お互い様でしょ。ふふふ……。ほら、これを塗って、あとは……。 頭の中の声は、今度は回想。情事の翌朝だろうか。止められなかった欲の痕。ちょっぴり困惑しながら、彼は決して咎めてはいない。 思い出したのは、声だけではなかった。あの時私は、打撲などに効く痛み止めと、ファンデーションを塗ってあげたことを覚えている。休日ならかまわないけど、これから二人とも仕事に向かうのだからさすがにね、と笑い合って。 私の体の回復は、記憶の回復に直結している。抗うすべも、猶予もなく、私を先へと進ませる。怖いけど、すべてを思い出す瞬間は少しずつ近付いている。それは何か月かあとかもしれないし、明日かもしれない。 避けようのない時が私を待っているのなら、私は今、どうしたらいい? 精神は絶え間なく揺れている。私の記憶は穴ぼこだらけ。それどころか、針のような小さな穴から、記憶の一部だけが時々降ってくるだけの状態。それはまるで、とらえどころのない星の光。肉眼で夜空を見上げてみても、それぞれの星がどんな姿をしているか、どんな景色が地表に広がっているのか、知ることはできない。だからこそ。目に届く光が、言葉に尽くせないほど美しいということを、胸に抱きしめていたい。 晧司さんの目に微笑みかけると、優しく髪を撫でてくれた。「晧司さん」「ん?」
お湯に浸してよく絞ったタオルを片手に、昨夜熱烈に私を抱いた人の寝室へと、足を踏み入れる。その瞬間、フッと頭に浮かんだ。 ――この部屋に入るのに、わざわざノックするなんて何だかおかしい。だってここはもともと……。 首を傾げて立ち止まった。頭の中の声は、不審や疑念ではなく、楽しそう。小さないたずらをおもしろがっているかのようだ。 真実を知るのは、待っていたはずなのに怖い。 晧司さんとの確かな関係を信じたい。けれど記憶が戻ったら、この静かな生活は終わりを告げる。そしたら、私はどこへ行くんだろう。物語によくあるように、今度は、記憶を失っていた間のことを忘れてしまうんだろうか。昨夜この人と求め合い、溶け合ったことも、記憶の外へと追いやられてしまうのかもしれない。夕李と子供のようにはしゃいだ散歩の思い出も、彼に残酷なことをしてしまった昨日のことも、私は都合よく忘れていくのだろうか。「リン、おいで」 穏やかな声が呼ぶ。晧司さんは起き上がり、ベッドに腰かけてこちらを向いていた。着替えの途中。私が立ち尽くしている間に、上半身の肌を露わにしていた。目に飛び込んでくるたくましい体躯。ところどころ鮮やかな赤が散っているのは、私が無我夢中のうちにつけた痕。私の独占欲。彼は、それを許した。 すーっと、頭の中が軽くなっていく。この部屋を出ていた間は自信を失いかけていたのに、今はまた、晧司さんとの揺るぎない絆を疑わない。はっきりしているのは、私がとても不安定な状態にあるということだ。 素直に、ベッドに歩み寄った。
「すず、これは君に」 差し出されたのは、カフェの紙袋。パンとコーヒーのいい香りがする。「私に?」「今日、少しでも何か食べたのかい?」「……あっ」 すっかり忘れていた。起床したのがお昼過ぎとはいえ……昨夜のことを思い返したり、晧司さんの体調に驚いたり、指輪のことを考えたりしながら、空腹を感じることなく数時間が過ぎていた。 夕李は苦笑して、私の手からタオルを取った。「天霧さんに、会えるかな?」「ええ……あなたが一段落したら来てほしいって。あ、でもこれはっ」 私をリビングの椅子にかけさせ、食事をとらせようと優しい仕草で促した夕李は、跳ねるようにその動きから逃げた私に、少しだけ驚いた顔をした。その拍子に、タオルは私の手の中に戻っていた。素早い動作ができたことに、自分でも驚いた。 私、急速に元気になっている……? 記憶のかけらが集まり始めたことと、関係があるの?「すず……」「……あの、すぐ、来るから……」 どう見ても不審な私の行動と言葉。彼はそれを咎めようとはせず、「わかった。僕は荷物の整理を済ませてしまうよ」と微笑んだ。「ごめんなさい。あの……お食事、買ってきてくれてありがとう」「どういたしまして。ああ、そうだ。その間に、何か一品作っておくよ。だから急がなくて大丈夫だ」「ありがとう……」 もう一度お礼を言い、悪いことを見つかって逃げ出す子供のような気持ちで寝室へと向かった。 晧司さんは、汗をかいた体を熱いタオルで拭いてさっぱりしたいはず。夕李が寝室に行けば、彼は晧司さんの裸を、上半身だけだろうけど見ることになる。そこにもし、私が情事の痕を残してしまっていたら……! ドアの前で深呼吸をして、ノックをし、「晧司さん。入りますね」と声をかけてから中へ入った。
彼は小さく笑って、脇に置いてあった段ボール箱を持ち上げた。「僕に強がっても駄目だよ。詳しくは聞かないから、無理に元気な振りもしないこと。いいね?」 太陽の中に見え隠れする影。謎めいた明るさ。閉じ込められた山の中で、夏中、私を楽しませてくれた。その時間は、彼を傷つけてしまったことで終わりを告げたのではなく、なおもこんなに優しく続いている。「ありがとう」 彼がくれた言葉に、しっかりと目を見て応えた。 切れていはいない。私たちの間にある糸は、何色なのかはわからないけど確かにつながっている。ならば私は、逃げずにこの縁と向き合おう。それもまた、記憶の扉に通じているのかもしれないから。「重い物を持たせたままで、ごめんなさい」 荷物を持った彼が先に通りやすいように、玄関のドアを押さえた。「ありがとう。大して重くはないんだよ。天霧さんはどんな様子?」「お薬を飲んで眠って、顔色はよくなってきたの」 リビングに運んでもらいながら説明する。箱の中身は、おかゆなどの消化のよい食べ物と、スポーツドリンク、うがい薬、のど飴、胃薬、それにスープの材料によさそうなたくさんの野菜。 大して重くないなんて言ったけど、本当は相当重かったはず。けろりとしているのは、夕李が力持ちだからかしら。フッと、「美術館のスタッフにしては……」という言葉が浮かんだ。 直感。 記憶とは言えないまでも、それは私の、私自身がよく馴染んだ思考回路から導き出された疑念なのだろう。とは言え、「美術館の人って力があるのね」などと口にするのもわざとらしい。「大きな絵や彫刻を運ぶこともあるからね」と返ってくれば、それまでだ。 てきぱきと品物を箱から出し、使いやすく配置していく夕李には、私を脅かそうとする影は見えない。これも直感だ。彼のそばで、晧司さんに頼まれたタオルを用意しながら、こんな状況でもなお私は、彼から降り注ぐ光を感じていた。
彼は私の首筋に目をとめ、見る気はない、何も見ていないと言うかのように視線を逸らした。あっと思い出しても、もう遅かった。そこには、彼がつけた痕を晧司さんが上書きしたことが、はっきりと見て取れるはず。一連の出来事に頭がぼんやりして、なんて言い訳だ。ショールで隠そうとも思いつかなかった。 おそらく私は、隠す必要がない環境にあった。彼との関係を。少なくとも、キスマークを人に見られたとしても、後ろめたく感じる必要のない関係。従兄妹同士の恋人か、それとも……。 ああ、それとも、もう終わってしまったんだろうか。だから晧司さんは、寂しそうに私の背中を見送ったの? 昨日、あんな形で別れてしまった夕李に何も言えないまま、次から次へと考えてしまう。晧司さんとの仲に期待をし……縋ろうとしたのに、躱されてしまった気がしている。 間違いなの? 私の、勘違い? 記憶をなくした私に優しいあの人に、必要以上に寄りかかってしまっているだけだというの? 私の帰る場所は、ほかにあるのだろうか……そう、例えば目の前にいるこの人。顔を上げると、心配そうな夕李の瞳が星のように私を見下ろしていた。「……大丈夫?」 その目の表情も、声音も、私への熱情を封じ込めてはいない。昨日の昼までの二人には、二度と戻れない。車のテールランプを点滅させて伝えてくれた「愛してる」は、消えない刻印となって私の心に焼き付いている。 けれど私は……晧司さんのものでありたい。あの人と、お互いのために生まれてきたのだと感じられる瞬間を、積み重ねていきたい。 晧司さんは、それを望んでくれるだろうか。今のこんな私を、夕李は何と思うだろうか。私は……何て身勝手な女なんだろう。 だから、こう答えるしかない。「大丈夫……」
額から唇を離した時、伸びてきた腕に閉じ込められた。弱ってはいても、彼の力は難なく私を引き寄せ、隣に寝かせてしまう。じっと見つめられ、言葉を発するのがもったいない気がした。晧司さんがまた拒絶の言葉を口にするまでは、彼と私はひとつなのだと感じていられる。「……」「……」 二人とも、何というか……頑固だ。 彼は、指輪のことを問われるのを待っているのかもしれない。私は、聞きたくない。いくつかの可能性が考えられるけれど、どれも確信を持てないから。 私の記憶が戻るのを、彼が待っているのかどうかも、わからなくなってきた。私の中に、行き場を求めて壁の向こうから叫び続けている記憶があるように、彼の
目が覚めたのはお昼過ぎ。体もベッドも綺麗になっていた。光が眩しい。カーテンを開けると、台風は通り過ぎていた。乱暴な洗濯機の中に放り込まれていたような世界は、すっかり洗われて輝いている。 何も着ないでベッドから出た私の体には、晧司さんに愛された赤い痕。そこに触れただけで、熱い瞬間がよみがえる。お腹の奥に残る充実感。 「なぜ……」 疼く胸は、私が忘れた答えを知っている。昨夜、私は晧司さんのもので、晧司さんも……私のものだった。決定的な言葉はなかったけど……。 カーテンを握りしめて嵐の夜を反芻していると、どんどんいけない気持ちになっていく。振り切
春日さんと七華さんは、週に数回やってくる。私に付きっきりの晧司さんに代わって買い物をしたり、家中のお掃除をしてくれたり。外界と隔絶された生活は、二人のおかげで成り立っている。お昼前に来て、昼食を共にする。夕方からは、また晧司さんと二人きり。 私は病院でのリハビリに代わるものとして、別荘の周りを無理のないペースで散策している。七華さんがついてきてくれる時は、女同士の内緒話ができて楽しい。この日も、口には出さないけれど心配そうな晧司さんを残して、二人で散歩に出た。「お顔の色がよくなって安心しました。今日はたくさんお手伝いいただいて、ありがとうございました」 「あまり邪魔にならなかったの
「リン、食事の支度ができたよ」 低く、穏やかな声が私を呼ぶ。「はい、今行きます」「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あ







